【言葉の大切さ】最後の手紙

こんにちは、くろはるです。

少し重たいというか、真剣な話をします。

みなさんは紙とペンと本気で向き合い

人にお手紙を書いたこと、最近ありますか?

メモ程度の置き手紙を書くことならよくあるかもしれませんが、

ある人に真剣にお手紙を書くということは、

人生においてそんなに多くは経験しないことだと思います。

今日その人に書く手紙が、最後の手紙だったとしたら、、?

そんな話をさせてください。

最初で最後の手紙

私が最後に真剣に手紙を書いたのは、

2015年の8月です。

2015年の9月から二世帯住宅で一緒に住むはずだった祖父が

その1か月前の8月に突然亡くなりました。

一緒に住んだらこうかな?どんな感じかな?

そのことしか考えていなかったので、

亡くなった時は信じられなかったし、

ひどく泣きました。

祖父には孫が7人いました。

その中で私は上から2番目で、

いとこ同士の中では祖父と過ごせた時間が長いほうでした。

1つ上の姉と同い年のいとこと3人で

よく祖父に遊んでもらっていたので

「3人で最後におじいちゃんに手紙を書こう」

ということになりました。

私はおとなげなく、絶対に嫌だと断りました。

最後だと思いたくなかったからです。

あともうひとつは、

おじいちゃんに書く最初の手紙が

最後の手紙になってしまうのが嫌だったからです。

それでも姉に「お世話になったんだから」と叱られ、

紙とペンと真剣に向き合いました。

最後だと思うと、適当になんて書けなくて、

ひとつひとつの言葉を真剣に選びました。

幼少期におじいちゃんと過ごした楽しい思い出も、

仕事がつらくてさぼっておじいちゃんの家に行っても

なにも言わずにそっとしておいてくれたこと、

普段は無口なのにお酒を飲むと愉快なところが好きだったこと、

丁寧に言葉にしていきました。

棺桶にいれてもらおうという話だったので、

おじいちゃんが天国へ行っても読んでくれるような、

明るい気持ちになれるような手紙を書きました。

最後の言葉は美しい

その人へ送るその言葉が、最後の言葉だったとしたら?

きっと適当には選べなくて、ひとつひとつの言葉を真剣に選ぶはず。

私が書いた最初で最後のお手紙は、きっと美しい言葉であふれていたと思います。

人は慣れてしまうとすぐにそれが「あたりまえ」になってしまう。

今一緒にいられる人と、ずっと一緒にいられるかなんて

まったく保障されていないのに。

そのことをおじいちゃんが亡くなった時に学んだはずなのに、

最近はいまそばにいてくれる人に対してないがしろになってしまったり、

いつでも会えるしいつでも話せると思ってしまって、

一緒にいられる時間を大切にできていない気がします。

明日また会えるかなんて、本当は誰もわからないのに。

そのことをふと考えて、忘れないように記事にしました。

なんでこんなこと思い出したのかというと、

この本に同じことが書いてあったからです。

新世界

新世界

西野さんはお友達に

「ファンだって言っている人がいるからあってあげてよ」

と頼まれたそうです。

よくよく聞いてみると、そのファンの方は余命宣告されている方だったそう。

実際に会ってみると、とっても明るくて、

話す言葉のひとつひとつが美しかったそうです。

今日残せるこの言葉が最後の言葉かもしれない。

そう思うと人は丁寧に話すそうです。

西野さんはその方から言葉の大切さを学んだと

この本に書いていました。

言葉から学ぶことってたくさんあります。

こうやってブログを書いていると、

どうしたら相手に伝わるかな?って真剣に考えることができます。

書くことで学べる。最近実感しています。

今日の言葉が最後の言葉かもしれないということを忘れずに、

相手にしっかり伝わる言葉を選んでいくことを心がけます。

ではまた。

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